留学前の経歴

私の留学前の経歴

まず私の留学前の経歴を書いておきます。渡米・留学は突然決めたのではなく、それまでの長い試行錯誤の延長線上にあります。なぜ留学しようと思ったのか、なぜ決断したのかをイメージしやすくするため、やや詳しく書きます。アメリカでのことだけ読みたい方は読みとばしてください。

子供の頃・多摩美術大学デザイン科・グラフィックデザイン会社

予備校時代のデッサンデッサン

私は子供の頃から工作をしたり絵やマンガを描いたりデザインをするのが好きで、多摩美術大学デザイン科グラフィック専攻を卒業した後、最初は広告企画デザイン会社に入りグラフィックデザイナーとして仕事をしました。

まだ世の中にパソコンが普及しておらず写植で版下を作っていた時代です。当時はグラフィックデザインといえば広告など印刷物のデザインが主流でした。海外ではミュージックビデオが出てきていておもしろいなと思ったり映画やアニメの美術にも興味がありましたが、それらは自分には縁のない世界だと思っていました。グラフィックデザイン科の卒業生はグラフィックデザイン会社やメーカーのデザイン部、広告代理店などに入るのが普通で、自分もその流れでグラフィックデザイン会社に入りました。雰囲気のいい会社で、最初は覚えることも多く上司先輩同僚達と連日遅くまで仕事をしましたが、クライアントは堅い業種でその広告やパンフレットや冊子などの印刷物のデザインはフォーマットが決まっていたり文字のレイアウトが多く、1年たち、2年たつうち、自分はもっとビジュアル作りがしたいという思いが強くなっていきました。

休日には、美大在籍中に取り組み始めたエアブラシによる作品制作を続けていましたが、会社の仕事は残業も多かったので、一日のうちの大半を過ごす仕事のほうで実現していかなければずっとこのままだと思い、さんざん考えた後そこを3年弱で退社しました。

フリーランスのデザイナー兼イラストレーター

同業他社に転職しても状況は同じだろうと思い、フリーランスのデザイナー兼イラストレーターになりました。

自分で作品を作り、デザイン会社、出版社、レコード会社、TV局などあちこちに売り込みをし、イラストレーション、ロゴデザイン、書籍の表紙デザイン、立体デザインなど様々な仕事を受ける一方、仕事以外で作った作品を様々なコンペに応募もしました。二科展で賞をいただいたほか日本及びアメリカのコンペに時々入選して展覧会に出品もし、個展も開きましたが、作品が売れたりダイレクトに仕事に結びつくこともなく、地道に売り込みを繰り返しました。

当時はオリジナリティが重要だと考え特殊な絵柄の作品を作っていたので、仕事の依頼があるときはおもしろい仕事が来るもののそういう仕事は発生する頻度が低く、また、自分の作品を作っている時間や売り込みをしている時間は売上がたっていないので収入は不安定でした。作品制作には材料代がかかり、コンペに応募するのにもお金がかかります。そのため、登録制の日雇いのアルバイトもしました。工事現場のガラ出し、引っ越しアシスタント、テレビ番組の電飾など色々やりました。フリーランスといえば聞こえはいいですが、フリーランス兼フリーターでした。

■立体と写真を合わせた個人作品(立体作品に自分で撮影した写真を投影した一発写真ですが画像調整にグラフィック・ペイントボックスを使用)Mimicry

世間ではようやくMacが出てきて一部のデザイナーが使い始め、自分も買って制作を始めました。エアブラシの作業は大変だったので、それをパソコンに置き換えたいと考えたのです。しかし当時Photoshopにはレイヤーがなく試行錯誤の連続でした。仕事も受けましたが、まだ世間のDTP環境が整っておらず既存の版下入校用のデザイン・ビジュアル素材をMacで作って印画紙やポジ出力して納品することが多かったです。当時のパソコンは非力で、少なくとも単体ではとうてい映像制作などできない時代でしたが、静止画でCGも作り始め、元々趣味で音楽にも取り組んでいたので、パソコンで、ビジュアルと音楽とことば/ストーリーの合わさった作品を作れるのではないか、またはそういう仕事をしたいと考えるようになりました。

■インディーズで、音楽CD付ビジュアルブック出版
「DIGITAL NATURE PARADISE」(デジタル・ネイチャー・パラダイス)(2005) 「DIGITAL・NATURE・PARADISE」

テレビ局内でCGなどを制作

そんなフリーランスの時期を5年過ごしたあと、縁あってテレビ局グループのデザイン会社に入り、12年ほどは親会社のCG部署でCG制作をしました。テレビは「ビジュアルと音楽とことばの合わさった」メディアですし、その中で当時盛り上がってきていたCG制作の仕事ができるのは自分の理想に近いと感じられました。そこでは、ニュース番組用急ぎ対応のCG制作やパソコンのオペレーション業務とそのための泊まり込み勤務も主たる業務でしたが、個人的にはバーチャルセットのCGや番組オープニングタイトルの制作に魅力を感じていました。

しかし「ビジュアルと音楽とことば」の合わさったメディアの一端は手掛けられているものの、もっとコンテンツそのものを企画制作したいと考えるようになりました。

そのため、所属会社のPI(目標設定や達成報告と自分の取り組みたいことなどを会社へ伝える書類)で映像コンテンツの企画制作に携わりたい旨を書く一方、地デジ移行で生まれる可能性に着目したりしつつ、帰宅後や休日に、ようやく映像を扱えるようになってきたものの当時はまだ不安定だったパソコンと悪戦苦闘しつつ音楽家にも協力してもらって映像サンプルを作って会社の人に見てもらったり、社内で企画募集があれば応募したりしましたが、そんな中で「ビジュアルと音楽とことば/ストーリーの合わさったコンテンツ」の最たるものは映画やアニメではないかと考えるようになりました。

基本的にはテレビ局自体で映画やアニメを作ることは稀ですが、製作委員会に名を連ねその一端をグループ会社が担うことはあります。映画の場合基本的にはヒットしたコミックやアニメを元にすることがほとんどであることは理解していましたが、帰宅後や休日にストーリーを考え、映画一本分の絵コンテを描き、ビジュアルイメージを作り、企画としてまとめ、プロデューサーや社長に見てもらったりしました。

しかし箸にも棒にも掛かからず、何年努力しても一向に状況は変わリませんでした。アピール力や社内での政治力が足りなかったのかもしれません。まあ、経験がない者においそれとやらせられないだろうとは思いますが、経験しようにも機会がなく、そうこうするうちに年齢も上がってきて、一時期は外向きだった会社の体制も内向きになっており、人事異動によって管理部署の管理職をするようになり、ますます自分の目標から離れていくように感じました。

映画専門大学院大学

そんな時、映画専門大学院大学という、映画プロデュースコースを設置した夜間の大学院があることを知り飛び付きました(その後2013年に閉校)。テレビ局で働いているのにコンテンツプロデュースを学校で教わるというのも変な話ですが、会社でその機会がないなら自分で勉強しようと思ったのです。

そこでは、経済学やマーケティングなどのアカデミックな授業とシナリオ分析や外部の映画プロデューサーや監督が実際の企画実現までを話す講演もあり、まさに自分の勉強したかったことがそこにありました。幸か不幸か会社では管理業務になっていたため飛び抜けた残業はなく、少し残業をした後学校に行き、20代中心の学生達に混じって先生さえ自分より若い場合もある環境で勉強するのは非常に楽しかったです。宿題もあるため、電車の中や帰宅後などの時間はすべてそれに取り組み、夜はギリギリまでやってバタンと寝る暮らしを続けました。自分の人生で最も忙しかった時期ではないかと思います。英文の資料を読む必要もありましたが、それまでNHKのラジオ講座をやったりやらなかったりを繰り返したり何度か旅行でアメリカに行ってはいましたが、英語力のなさを思い知りました

留学を意識

学校はそんな感じで楽しく忙しかったのですが、授業はすべて講義で実際の制作はなくシナリオの授業でさえ講義だけだったため、実際の映画制作を勉強したいと考えるようになりました。一方会社の業務は、それまできちんと管理されていなかったことの整備も多く、もつれた糸をほどくような取り組みをして整備してきたことに自負はありましたが、このままこれが続くのだろうなと考えると強いストレスを感じるようになりました。

テレビ局は社会の変化を見据えてオリジナルのコンテンツをもっと企画制作していく必要があると考えていましたが、実際には体制は内向きで現状維持しか感じられず、そんな中で希望する制作の仕事はさせてもらえず、きちんと管理されてこなかったことの整備をずっと続けていくのはありえないと思いました。

友人知人の中には留学や仕事、移住で海外に出ている人が数人いたため、自分も一度は海外で暮らしたいと考えていたこともあり、選択肢のひとつとして海外で映画を勉強するということを徐々に考えるようになり、リサーチを始めました。

▶︎リサーチの様子はこちらの投稿からご覧ください。

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