最近AIについて考える場面が多く、私なりに思っていることを書こうと思います。一般的な考え方とずれているかもしれませんが、同じように感じている人は一定数いるのではないかと思います。
「AI」の定義によって変わってくると思いますし個人的な意見にはなりますが、現在「生成AI」と呼ばれているものはAI(artificial intelligence = アーティフィシャル・インテリジェンス =人工知能 )とは言えず、多量に学習した既存のデータを混ぜるプログラムでしかないです。かなり便利ですがインテリジェンスはユーザー側に求められ、まだAIとは言えないと思います。
人間の知性も「多量に学習した既存のデータを混ぜている」だけだと解釈すれば現状の「生成AI」もすでに知能・知性を持つといえるかもしれませんが、ここでは深掘りせず、印象で話します。
「生成AI」を初めとする現在「AI」と表現されているもののほとんどは、人は常にキャッチーで言いやすいキーワードに飛びつきやすいことと(最近では「メタバース」とか「FIRE」とか)、そのためにマーケティング上の理由で使われているに過ぎないように思います。
プログラムに十分な知能・知性が備わり意識、意思が生まれて初めてAIと呼べると思いますが、そうでなくても、もっと高度に発達して欲しいと考えています。
インターネット上の有象無象のデータだけではなく、専門家の生成した最新の情報の学習を圧倒的に高め、一次回答を検証するプロセスも内包し、それらに基づいて客観的で正確な結論を生成するアルゴリズムが求められます。
テクノロジーが進化して便利にはなってきましたが、世の中にはあらゆる部分に自分(達)の利益優先の恣意的な情報や思い込みによる意見があふれていて、事実・真実・正解が見えづらいです。
そのためもあって人間は個人や社会の抱える問題やその解決に向けた取り組みへの解像度が圧倒的に低く、未だにこんな状態でこんなこともできないということが多いと感じます。いくつかは既得権益が邪魔をしています。
個人用途であれ社会的用途であれ、事実・真実・正解(単一の正解に限らない)をきちんと示してくれるプログラムが必要です。ただし、その事実・真実・正解を人間が受け入れることができるかは別問題です。
少なくとも時給や月給など時間あたりの仕事をしている限り「生成AI 」などのテクノロジーが発達しても多くの人にゆとりは生まれないと思います。
これまでの長い歴史を見ても、テクノロジーの発達で物事が便利になってもそれはそのテクノロジーがない状態との比較でしかなく、人々の生活にゆとりは生まれません。そのテクノロジーを使うことが当たり前になり、テクノロジーを使うスピード感がデフォルトになり、ゆとりは生まれるどころかますます社会のスピードが早くなります。
テクノロジーはこれまでたくさんのことを便利にし、物事を大幅に効率化してきました。
・自転車やオートバイ、自動車やバスや電車によって、徒歩では不可能なスピードで目的地につけるようになりました。飛行機を使えば徒歩では行けない場所にも行けるようになりました。
・電話によって、わざわざ相手の場所に行ったり手紙を届けなくても、離れた場所にいる人とリアルタイムで話すことができるようになりました。
・洗濯機や掃除機や調理家電によって、家事の負担が減り、かかる時間が短縮されました。
・コピー機によって、驚くほど簡単に短時間で書類の複製が作れるようになりました。
・電卓によって、そろばんに熟練しなくても誰でも手軽に正確に複雑な計算ができるようになりました。
・パソコンによって複雑で広範囲の作業ができるようになり、事務作業などが効率化しました。
・プリンターやスキャナーによって、パソコンのデータを紙で出力したり逆に書類などをパソコンに取り込めるようになりました。
・携帯電話によって、電話機の設置されている場所に縛られずに、また、相手がどこにいようと携帯電話を持っていれば、すぐに連絡できるようになりました。
・インターネットによって、情報の収集が大幅に効率化しました。何かを調べる時に手元の紙の資料や辞書・事典で分からなくても、人に聞きに行ったり図書館に行ったりしなくても調べられるようになりました。
・電子メールによって、郵送にかかる時間を経ずに相手にメッセージや書類までも送れるようになりました。
・ネットショッピングによって、外出せずに買い物ができるようになりました。
・スマホによって、パソコン並みの機能を持ち運んで使えるようになり、電車の中など移動中でも情報収集やメッセージの送受信ができるようになりました。
・スマホと地図アプリによって、事前に訪問先に道順を聞いたり地図でルートを確認しなくても目的地へたどり着けるようになりました。
・チャットアプリによって、複数人参加でのリアルタイムの情報伝達ができるようになりました。
こうして見ていくと、いかに物事が便利になって大幅に効率化してきたかがわかります。圧倒的です。
物事が便利になって大幅に効率化し少ない労力と時間で仕事や家事が終わるようになった結果、人々の仕事や生活には大幅なゆとりが生まれ幸せになっているはずですが、実際はそうはなっていないように見えます。それどころか「タイパ」と言ってますます時間効率を上げようとさえしています。
テクノロジーによってもたらされる便利さはそれがない状況との比較でしかなく、ゆとりができたり幸せになっていないのは結局、そのテクノロジーを使うことが当たり前になるからです。まわりの人が使えないテクノロジーを自分だけが使えるのであれば圧倒的な競争力が生まれますが、みんなが使えば優位性はなくなります。それどころか、そのスピードアップした状況がデフォルトになり、精神的なストレスは増える一方かもしれません。
高度に発達した「AI」によって人間社会のあり方を根本的に変え、人々の仕事や生活に大幅なゆとりが生まれみんなが幸せな社会にできることを期待したいですが、少なくとも時給や月給など時間あたりの仕事をしている限り「生成AI 」などのテクノロジーが発達しても多くの人にゆとりは生まれないと思います。
生存本能がなく時間(寿命)や領土の概念に縛られないAIは「自ら」の判断で人間を滅ぼそうとする必要がないです。宇宙規模の視点では、人類が生まれたり仮に滅びることがあってもそれは単に自然現象の一貫に過ぎないため、そこに介入する必要がありません。
あるとすれば、誤動作や故障によってネガティブな影響が出る場合と、恣意的な判断しかせず部分最適に走る人間がAIを使うことで人間の社会が混乱したり、自滅が早まることは考えられます。
人類にとってAIは、人間が処理できないほどのデータに瞬時にアクセスし、客観的な判断を行って物事を整理・効率化することに利用できるというポジティブ/希望的観測の面と、人間の欲望を加速するために使われるだけというネガティブ/悲観的観測の面を持つと思いますが、いずれの場合でも差し当たりはおそらく人間のせいで平和な未来にはつながらないように思います。
客観的な判断を行って物事を整理・効率化を本気で進めた場合、これまで既得権益にへばりついたり不要なものやサービスを売ることで利益を得ていた多くの人は猛反対するだろうと思います。
人間社会は、事実に基づく客観的な判断による全体最適の方策ではなく、どれだけ自分(達)の部分最適を推し進めるかの戦いをしています。政治的にも経済的にもです。彼らにとっては、客観的な判断を行って物事を整理・効率化されては困るのです。
既得権益や政治を持ち出すまでもなく、人間は恣意的で、事実に関わらず自分の都合で物事を解釈・判断し、基本的に自分は正しいと思っています。
結局AIは人間がそれぞれ自分の都合をおし進めるために使われ、それが脅威となります。AIの脅威とはAI自体が脅威なのではなく、AIが客観的で正確な情報を示したとしても人間がそれを受け入れず、又はAIを悪用して暴走する脅威であり、人間の存在意義が問われる脅威です。
個人的には、高度な「AI」を利用し又は助けを借りることで、社会のあり方をデザインし直し、人々の仕事や生活に大幅なゆとりが生まれて幸せな社会にできればいいと思っています。
冒頭で、人間の知性も「多量に学習した既存のデータを混ぜている」だけだと解釈すれば、、、ということを書きましたが、「AI」によって人間についての認識も深まっていくのかもしれません。
人類は、驚くほど人間に都合のいい地球環境(活動に適した重力があり、日光があり、概ね生存に適した気温で、植物の光合成によって酸素があり、水があり、食べ物がある)と、恐ろしく機能的にデザインされた身体を持っています。なぜこうなっているのかを考えるのも必要な学問だと思いますが、深く考えずとも、これらを大事にして楽しみながら生きればいいと考えています。