映画『ブレードランナー』の原作はフィリップ・K・ディックの小説『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』ですが、脚本開発中に何度もタイトル案が変更されています。
また、監督のリドリー・スコットは最初はこのタイトル『ブレードランナー』を気に入っていたものの、一時期別のタイトルにしようとして叶わず、その後も『ブレードランナー』は仮タイトルとして考えていましたが結局そのままになったようです。
タイトル案の変遷は最初から順に以下のとおりです。
『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』(Do Androids Dream of Electric Sheep?)
『アンドロイド』(Android)
『メカニズモ』(Mechanismo)
『デンジャラス・デイズ』(Dangerous Days)
『ブレードランナー』(Blade Runner)
『ゴッサム・シティ』(Gotham City)
『ブレードランナー』(Blade Runner)
この映画については、リドリー・スコットによる世界観の構想やシド・ミードのデザイン、デッカードはレプリカントか?という議論、いくつもある編集のバージョン、などが話題になることが多いと思いますが、この映画の企画の立ち上がりは、いわゆるハリウッド映画のイメージとはかけ離れた個人の地道な苦労の積み重ねであったようで、監督のリドリー・スコットが雇われたのも企画の始まりから何年も後のことです。その様子をひもとくのも興味深いと思います。
以下、映画『ブレードランナー』の企画の始まりの様子とタイトル案の変遷をまとめようと思います。
出典
書籍「メイキング・オブ・ブレードランナー ファイナル・カット」(以下メイキング書籍)
長編ドキュメンタリー映像「デンジャラス・デイズ メイキング・オブ・ブレードランナー」(以下メイキング映像)
それぞれ最後にリンクを載せてあります。
▶︎映画『ブレードランナー』の原作小説『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』の感想とタイトルの意味についてはこちらの投稿をご覧ください。
俳優だったハンプトン・ファンチャーが、1975年に映画のプロデュースを検討する中で友人のジム・マックスウェルに相談し、フィリップ・K・ディックの小説『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』を推薦されたところからこの映画の開発の長い道のりが始まります。
ファンチャーは古いペーパーバックで『電気羊〜』を読み、さほど好きではなかったものの文体やディックの主張と共にその商業性を気に入り、映画化のオプション契約をすることを念頭に苦労の末ディックに面会しました。
オプション契約とは、原作者に対して対価 (オプション料) を支払うこととで、一定期間 映画化権の譲渡や利用許諾を受ける優先権を得る契約です。
面会自体は友好的に終わったものの、その後何度か会ってもディックが映画化に乗り気でないことなどから、話は進まなかったとのことです。
しかしその2年後の1977年、(ドキュメンタリー映像のインタビューでは、ファンチャーは「’78 or so」と発言していて、3年後と訳されています)偶然会ったファンチャーの古い友人で俳優のブライアン・ケリーがプロデューサーになる野心を持って映画化にふさわしい作品を探しており、『電気羊〜』を提案したところ乗ってきました。ブライアンはすぐディックの弁護士を通して書類を送り、『電気羊〜』のオプションを購入することができました。
ブライアンは知人のプロデューサーでありEMIの幹部であったマイケル・ディーリーに企画を持ち込みましたが、ディーリーは小説自体は気に入ったものの、映画化は難しいと断られたのことです。
その頃にはファンチャーは、誰かが『電気羊〜』を脚本化するにあたっていくつかのアイディアを持っていたため、ブライアンに説得されてその要約を書き、ブライアンはそれらを何度かディーリーに送り続けては断られました。
しかしディーリーは興味の気配を見せるようになり、ブライアンはファンチャーに、脚本を書くことを持ちかけ、ファンチャーはプロデューサーとして関わっているという理由で断ったものの、別の知人の女優からも勧められ書くことになったそうです。
ファンチャーが最初の原稿を書き上げるのに一年かかりました。その間ブライアンはファンチャーの家賃を払い、激励のため何度も訪れ、毎週書いたものを読んだとのことです。
映画を作ろうとする時、多くの人はどうやったらリドリー・スコットなどのような監督になれるかと考えるかもしれませんが、実際には『ブレードランナー』のような映画であっても、あるいは逆に『ブレードランナー』のような映画だからこそ、最初は個人の思いと地道な苦労の積み重ねから始まっており、この辺の話は非常に面白いです。
ファンチャーの最初の脚本は、ディックの原作小説と同じく『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』と題されていた。(メイキング書籍p50)
ブライアンはできた脚本をディーリーに読んでもらい、1978年の終わり頃、その脚本を気に入ったディーリーがプロデューサーとして関わることになりました。そしてディーリーはスポンサー探しを始めます。
「ディーリーの一番の関心事はタイトルだった。彼はスタジオが『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』を使うのに異議を唱えると踏んでいた。そこで脚本がハリウッドにまわされる前に、私に変えてほしいと言ってきたんだ」(メイキング書籍P56 私=ファンチャー)
脚本の第二稿もまとめられた。この原稿には『アンドロイド』という単純なタイトルが付けられた(メイキング書籍P56)
第二稿のすぐあと、ファンチャーは脚本を引き続いて書くためにロンドンに行きました。
脚本は第三の『メカニズモ』というタイトルを付けられたのだ。「実は、私はこのタイトルを、当時刊行されていた美しいイラスト入りのペーパーバックから盗んだのだ」-略-だが、あとでそのタイトルが使えないと分かった。そこで、『メカニズモ』から『デンジャラス・デイズ』に変えたんだ。これは脚本の四つ目のタイトルだった」(メイキング書籍P56 私=ファンチャー)
ファンチャーはロンドンで見つけたコミックの『メカニズモ』を気に入り、こちらをタイトルに決めていたとのことです。『メカニズモ』をカバーに記載した脚本もありました。しかしプロデューサーのマイケル・ディーリーは最終的に決まった『デンジャラス・デイズ』の方を気に入っていたとのことです。(メイキング映像より)
その後、監督探しも行われ、『アンドロイド』の脚本の頃に一度断ったリドリー・スコットが『デンジャラス・デイズ』の脚本を読み、彼の状況も変わっており、監督を受けることになったとのことです。1980年のことです。
メイキング映像でリドリー・スコットは、『デンジャラス・デイズ』の脚本を読んだが断った、と発言していますが、メイキング書籍では「最初に『アンドロイド』は断ったが、『デンジャラス・デイズ』を読んでみて、これは素晴らしいデザインの可能性を秘めた、並外れた作品だと思ったんだよ」と発言しています。
いずれにしてもリドリー・スコットが監督として参加し、ファンチャーとリドリー・スコットの二人三脚の脚本リライトが始まります。その中でタイトルも変更されました。
リドリー・スコットから、刑事として書いていたデッカードの仕事を別の名称で呼べないかと言われ、ファンチャーは、ウイリアム・バロウズの『ブレードランナー』を見つけ、リドリー・スコットに告げると気に入った様子だったとのことです。
メイキング映像のインタビューではファンチャーは「ディーリーが『ブレードランナー』を思いついたが、私はすでに使っていた」と発言しています。
いずれにしても、ディーリーを通じてウイリアム・バロウズへタイトルの使用料を払い、その後、アラン・E・ナースによる同じタイトルの本があることを見つけ、そちらにもタイトル使用料を払いました。
ところが、製作が進むにつれて〈ブレードランナー〉という言葉に対するスコットの情熱は、次第に薄れていった。代わって登場したのが〈ゴッサム・シティ〉である。リドリーは一時期本気で、映画のタイトルを『ゴッサム・シティ』にしようとしていた。(メイキング書籍P72)
しかし『バットマン』の原作者であるボブ・ケインから許可が出ず、『ゴッサム・シティ』から『ブレードランナー』に戻ったとのことです。その後もリドリー・スコットは『ブレードランナー』は仮タイトルとして考えていましたが結局そのままになったようです。
エポックメイキングな映画として認識されている今となっては、これこそがこの映画のタイトルであり、結果的には良かったのではないかと思いますが、予備知識のない人が『ブレード・ランナー』と聞いてもおそらくこの映画のストーリーを全く想像できず、かといって映画を見終わって納得するようなストーリーとリンクした深みのあるタイトルというわけでもなく、様々なタイトル案があったのは理解できます。
脚本開発はこのあとハンプトン・ファンチャーとリドリー・スコットとで意見が合わず暗礁にのりあげ、企画の発端であるファンチャーの知らないところで別の脚本家デイヴィッド・ピープルズが雇われます。
デイヴィッド・ピープルズはリドリー・スコットの希望を盛り込んで脚本のリライトをしましたが、最終的にはリドリー・スコットやマイケル・ディーリーなどがハンプトン・ファンチャーやデイヴィッド・ピープルズの知らないところで2人の脚本を切り貼りし、自分たちの気に入る脚本を作りました。
その後も、原作者とのトラブルがあり、予算でも問題が持ち上がり、1981年に開始された撮影でも様々な面でのトラブルがあり、1982年の映画公開後も、結果的に編集の様々なバージョンを作らざるを得ない状況がありました。
映像制作は様々な要素によってできており、多くの人の意見や都合がぶつかりやすいと思いますが、『ブレードランナー』はまさにそれを地で行っていたと思います。
長編ドキュメンタリー映像「デンジャラス・デイズ メイキング・オブ・ブレードランナー」(DANGEROUS DAYS MAKING BLADE RUNNER)は、『ブレードランナー』製作25周年(2007年)記念として発売されたDVDボックス「ブレードランナー アルティメット コレクターズ エディション」に含まれる映像特典DVDに収録されています。
この「ブレードランナー アルティメット コレクターズ エディション」には、ワークプリント版を含む『ブレードランナー』の5バージョンと、『デンジャラス・デイズ メイキング・オブ・ブレードランナー』などのメイキング映像が収録されています。Blu-ray版もあります。