映画学校には行かず、独学で映画を学んだ映画監督の一部について、映画を作り始めた経緯、最初の映画(長編デビュー作)とその時までの状況をまとめ生年月日順に並べました。
厳密には独学と言えないかもしれませんが、映画会社で助監督などからキャリアを始めた映画監督や、映画ではなく演劇を学んだ監督も含めています。また、映画だけが活動領域ではない人も含みます。
1910年3月23日-1998年9月6日
デビュー作『姿三四郎』(1943)
青年時代は画家を志望し、絵画研究所や画学校に通い「二科展」に入選したり展覧会に出品した。
就職先を探しているときたまたま新聞記事で助監督募集を見て、1936年にP.C.L.映画製作所(1937年に東宝に合併)に入社した。山本嘉次郎監督などの助監督をする中で映画監督を志し、後に山本組の製作主任につくと、助監督育成に力を入れる山本監督の下で脚本執筆からフィルム編集、エキストラ、ロケーションの会計までも担当し、映画作りで大切なことを学んだ。
山本監督の勧めでシナリオを書き始め映画雑誌に掲載され、助監督の仕事はしなくなり脚本執筆に集中し、いくつかの脚本公募に入選した。その後自ら脚本を書いた『姿三四郎』で1943年に監督デビューした。
出典・リファレンス
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E6%BE%A4%E6%98%8E
1928年7月26日-1999年3月7日
長編デビュー作『恐怖と欲望』(1953)(自主制作)
若い頃から文学、写真、映画への熱心な興味を示していた。
ニューヨーク市立大学シティカレッジの夜間部に入学するが、すぐに中退している。一時はジャズ・ドラマーを目指していたが、当時の大統領フランクリン・ルーズベルトの死を伝える一枚の写真が写真雑誌『ルック』誌1945年6月25日号に売れ、見習いカメラマンとして在籍するようになった。
彼は『ルック』に載った自身のフォト・ストーリーを元に、短編ドキュメンタリー『拳闘試合の日』(1951年)を製作し、映画の道を歩み始めた。この映画は3900ドルかかったが4000ドルで売れ、この成功をきっかけに『ルック』誌を退社した。
1953年、親類から借金をして初の長編劇映画『恐怖と欲望』を自主製作し、商業的に失敗するもニューヨークの批評家からは賞賛された。
出典・リファレンス
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%AD%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%96%E3%83%AA%E3%83%83%E3%82%AF
1940年3月29日 –
デビュー作『コヤニスカッツィ』(1982)
キリスト教修道会在籍中に、地域住民に医療を提供する施設やストリートギャングの少年たちを支援する地域組織プロジェクトを共同設立し、修道会を辞めた後は、メディア開発、芸術、地域組織、研究に焦点を当てた非営利財団IRE(Institute for Regional Education-地域教育研究所)を共同設立した。
レッジョは、アメリカの進歩的な政治的活動に多く関わっており、IREの活動を通じてプライバシーの侵害や行動をコントロールするテクノロジーの使用に関する公益キャンペーンを展開し、テレビやラジオで広く取り上げられた。
次のプロジェクトとして『コヤニスカッツィ』を開始し、当初は書籍によって伝えようとしたが全国展開に失敗し、大衆に情報を伝えるためのより効率的な方法として映画の製作に方針を変えた。
出典・リファレンス
https://en.wikipedia.org/wiki/Godfrey_Reggio
『コヤニスカッツィ」DVD特典映像のゴッドフリー・レッジョのインタビュー
『コヤニスカッツィ』についてはこちらの投稿もご覧ください。
1940年11月22日 –
デビュー作
『モンティ・パイソン・アンド・ホーリー・グレイル』(1975)(共同監督)
『ジャバーウォッキー』(1977)(単独監督)
大学卒業後、広告代理店に就職するが長くは続かず、雑誌『ヘルプ!』の編集者に転職。 コミック・ストリップ作家、アニメーターとしての仕事も始める。その後の1960年代半ば、イギリスへ渡りフリーのイラストレーターとしてロンドンで雑誌の仕事をする。また、子供向け番組『ドゥ・ノット・アジャスト・ユア・セット』に参加、アニメーションを制作する。イギリスのコメディグループ「モンティ・パイソン」のメンバーとしてBBCの製作番組『空飛ぶモンティ・パイソン』に参加する。ここで、アニメーションを担当し、シュールなアニメーションを制作。
その後、映画監督としての仕事を始め、主な活動をこれに移していく。映画監督としての初めての仕事は、1975年製作の『モンティ・パイソン・アンド・ホーリー・グレイル』であるが、これはテリー・ジョーンズとの共同監督であった。1977年、初の単独監督作『ジャバーウォッキー』を監督。その後、多くの映画作品の監督を務める。
出典・リファレンス
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%AE%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%A0
1952年12月15日 –
映画デビュー作『Fool’s Fire』(1992)(サンダンス映画祭でプレミア上映された後TVで放送)
長編映画デビュー作『タイタス』(1999)
10歳までにはボストン児童劇場に入団し、数々の作品に主演。16歳で高校を卒業した後、パリの国際演劇学校ジャック・ルコックのもとで学んだ。1970年、オハイオ州のオベリンカレッジに入学。2年次にはニューヨークのジョセフ・チャイキンのオープン・シアターなどでインターンをする。演出家のハーバート・ブラウがオベリンに移籍することを知り、オベリンに戻ってオーディションを受け、再び劇団の最年少メンバーとなった。
大学4年生の時、卒業後に始まる1年間のトーマス・J・ワトソン・フェローシップを獲得した。日本とインドネシアへの旅行が許され、1975年から1979年まで彼女は独立して活動を続けた。インドネシアでは、日本人、バリ人、スンダ人、フランス人、ドイツ人、アメリカ人の俳優、音楽家、ダンサー、人形遣いからなる仮面舞踊団「Teatr Loh」を結成。同カンパニーはインドネシア全土をツアーし、オリジナル作品『Way of Snow』と『ティライ』を上演し、後にアメリカでも上演された。
インドネシアからニューヨークに戻ったテイモアは、1980年にLa MaMaMaで『ティライ』を再演。『ハガダー』『真夏の夜の夢』の60分バージョンを制作し、その2年後には、シアター・フォー・ニュー・オーディエンスのためにシェイクスピア劇『テンペスト』を初めて演出した。
テイモアの最初の映画である『Fool’s Fire』は、エドガー・アラン・ポーの短編小説『Hop-Frog』を監督・脚色したもので、アメリカン・プレイハウスが製作した。 1時間に及ぶこの作品はサンダンス映画祭でプレミア上映され、1992年3月にはPBS(アメリカのTV局ネットワーク)で放送された。 オペラ『オイディプス・レックス』の舞台演出を経て、オペラ『オイディプス・レックス』の映画化も監督している。長編映画デビュー作『タイタス』(1999年)は、シェイクスピアの戯曲『タイタス・アンドロニカス』を映画化したものである。
テイモアは、1997年にブロードウェイで開幕した『ライオン・キング』の演出で最も広く知られている。ライオン・キング』の世界的な興行収入は、興行史上最高の興行収入を記録し、20カ国以上の100都市で上演され、全世界で1億人以上が観賞した。
出典・リファレンス
https://en.wikipedia.org/wiki/Julie_Taymor
1954年8月16日 –
デビュー作
『殺人魚フライングキラー』(1981)(撮影の終盤で降板)
『ターミネーター』(1984)
15歳の時に『2001年宇宙の旅』を見て、自作の宇宙船やプラモデルを使い、16ミリカメラなどで実験映画を撮り始める。
大学を中退後結婚し、トラック運転手などで生計を立てていたが、1977年に封切られた『スター・ウォーズ』を見て、仕事を辞めて再び映画制作に没頭する。そして友人と共に1978年、35ミリの短編SF『Xenogenesis』を制作する。この短編がきっかけとなりロジャー・コーマンのニューワールド・ピクチャーズに入る。
『宇宙の7人』など、いくつかの作品のスタッフとして関わったのち、デビュー作『殺人魚フライングキラー』を監督するが、撮影の終盤でプロデューサーに降板させられ、作品の完成にまで関われなかった。
次に『ターミネーター』の脚本を書き、自ら監督し、世界中でヒットを記録した。
出典・リファレンス
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%82%BA%E3%83%BB%E3%82%AD%E3%83%A3%E3%83%A1%E3%83%AD%E3%83%B3
1957年9月21日 –
デビュー作『ブラッド・シンプル』(1984年)(コーエン兄弟製作 イーサン・コーエンはプロデューサーとしてクレジットされ監督としてはクレジットされていないが共同監督)
イーサン・コーエンは、兄のジョエル・コーエンとコーエン兄弟(Coen brothers)として共同で映画製作に携わっている。
少年時代から兄弟は読書や映画鑑賞を趣味としていた。ジョエルが貯めたお金で8ミリ映画撮影用機材を購入し、近所で仲間を募って映画を撮り始めたこともあった。
二人はマサチューセッツ州のバード大学サイモンズロック校を卒業。ジョエルはニューヨーク大学で映画製作を学ぶ。一方イーサンはプリンストン大学で哲学を学んだ。ニューヨーク大学を卒業後、ジョエルはアシスタントとして映画やミュージック・ビデオの製作現場で働くようになる。ジョエルは映画監督のサム・ライミと知り合い、彼が監督したホラー映画『死霊のはらわた』(1981年)の編集助手となった。
このころプリンストン大学を卒業したイーサンが、ジョエルの住むニューヨークを訪れてくる。兄弟は共同で脚本の執筆を開始、後にそれを彼ら自身の手で映画化した処女作『ブラッド・シンプル』(1984年)を発表する。同作は低予算での製作ながら、完成度の高いスリラー映画として好評を博した。この作品で兄弟はインディペンデント・スピリット賞の監督賞を受賞し、一躍インディペンデント映画界で注目される存在となった。
出典・リファレンス
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%82%A8%E3%83%B3%E5%85%84%E5%BC%9F
https://en.wikipedia.org/wiki/Blood_Simple
1963年3月27日 –
デビュー作『レザボア・ドッグス』(1992)
父親はニューヨーククイーンズ生まれの俳優であり音楽家でもあるトニー・タランティーノ。母親も大の映画マニアで、一緒に映画を見て育つ。
14歳の時、最初の脚本『ジ・アメージング・アドベンチャー・オブ・ミスター・リー』(The Amazing Adventures of Mr. Lee)を書く。16歳の時にハーバー・シティーのナーボン高校(Narbornne High School)を中退し、ジェームス・ベスト(James Best)劇団に加わり演技を学んだ。
22歳の時にマンハッタン・ビーチのレンタルビデオショップ「マンハッタン・ビーチ・ビデオ・アーカイブ」(Manhattan Beach Video Archives)の店員となり、この店員時代に、大量の映画に埋もれ働きながら脚本を書いた。1987年に『My Best Friend’s Birthday』という作品(短編、未完成)の脚本を共同で書き監督した。この作品はラボでの編集中に火災で危うく失われるところであったが、この作品が後の『トゥルー・ロマンス』(トニー・スコット監督)の元ともなった。
タランティーノは『レザボア・ドッグス』で脚本家・映画監督としてデビューした。脚本が米映画俳優のハーヴェイ・カイテルに認められ、彼の出演とプロデュースを受けて、カンヌ国際映画祭にも出品され、カルト的ヒットとなった。
出典・リファレンス
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%BF%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%8E
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%83%99%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%95%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%82%BA%E3%83%BB%E3%83%90%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%87%E3%83%BC#cite_note-1
1963年5月8日 –
長編デビュー作『ヒューマン・ネイチュア』(2001)
フランスのロックバンドOui Oui(自らもドラマーとして在籍していた)のミュージック・ビデオを手掛けてキャリアを始める。1993年に発表したビョークの「ヒューマン・ビヘイビア」のミュージック・ビデオが評判になり、以来ビョークのビデオクリップを多数製作。その他、ザ・ローリング・ストーンズ、ケミカル・ブラザーズ、レディオヘッド、ホワイト・ストライプス等を手がける。
リーバイス、GAP、コカ・コーラ、ナイキなどのテレビコマーシャルも手がけ、数々の賞を受賞。
2001年に『ヒューマン•ネイチュア』で長編映画デビューを果たした。
出典・リファレンス
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%82%B7%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%B4%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%AA%E3%83%BC
https://en.wikipedia.org/wiki/Michel_Gondry
ラナ・ウォシャウスキー(ローレンス・ウォシャウスキー )
1965年6月21日 –
リリー・ウォシャウスキー(アンドリュー・ポール・ウォシャウスキー )
1967年12月29日 –
デビュー作『バウンド』(1996)兄弟共同監督
母リンは看護師・画家で、俳優のローレンス・ラッキンビルは2人のおじに当たる。
それぞれ1983年と1986年にシカゴのホイットニー・ヤング高校を卒業。当時の在校生によると、2人は『ダンジョンズ&ドラゴンズ』をプレイしたり、校内の演劇やテレビの制作に携わったりしていた。ラナはニューヨークのバード大学に、リリーはボストンのエマーソン大学に進んだ。しかし2人とも中退し、シカゴで大工業を営むかたわらコミックの創作に勤しんだ。
最初に書いた映画脚本『暗殺者』はディノ・デ・ラウレンティスが権利を格獲得し、ワーナー・ブラザースの配給により、リチャード・ドナー監督によって映画化され、1995年に公開された。1996年『バウンド』で映画監督デビューを飾る。1999年の第2作『マトリックス』が世界的ヒットとなり、名声を手にした。
出典・リファレンス
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A9%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%82%A6%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%BC%E5%A7%89%E5%A6%B9
1969年5月1日 –
デビュー作『アンソニーのハッピー・モーテル』(1996)
ヒューストンにある共学の私立高校へ進学。『天才マックスの世界』の舞台にもなった場所で、アンダーソン自身もジェイソン・シュワルツマン演じる主人公のように演劇部の脚本と演出を手掛けた。
高校を卒業するとテキサス大学オースティン校で哲学を学び、この大学で俳優のオーウェン・ウィルソンと出会い、映画の共同制作を始める。短編映画『Bottle Rocket』がジェームズ・L・ブルックス監督の目にとまり、劇場用にリメイクした『アンソニーのハッピー・モーテル』で長編映画の監督デビューを果たし、マーティン・スコセッシから激賞された。
出典・リファレンス
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%80%E3%83%BC%E3%82%BD%E3%83%B3
1970年6月26日 –
デビュー作『ハードエイト』(1996年)
父親は俳優・司会者のアーネスト・アンダーソン。9人兄弟の3番目で父と特に仲が良く、12歳でビデオカメラを買ってもらい、映画監督になる夢を支援されていた。ティーンエイジャーの頃から脚本を書き始め、ニューヨーク大学に入るがすぐに中退。テレビ番組のプロダクション・アシスタントなどを経て短編映画を製作するようになる。
1992年に撮った短編『シガレッツ&コーヒー』がサンダンス映画祭で注目され、ハリウッドから声がかかる。初監督作品は『ハードエイト』(1996年)で、第49回カンヌ国際映画祭のある視点部門に出品された。
出典・リファレンス
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%88%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%80%E3%83%BC%E3%82%BD%E3%83%B3
1970年7月30日 –
デビュー作『フォロウィング』(1998)
ロンドンで広告のクリエイティブ・ディレクターの父と客室乗務員の母のもとに生まれる。7歳の時に映画を作り始め、父親のスーパー8カメラを借りて、アクションフィギュアで短編映画を撮影、10代の頃、映画監督を目指し映画を作り始めた。
映画学校に入れず、ロンドン大学(UCL)に入学し英文学を学ぶ。大学を選んだ理由は映画製作施設の整っていることも挙げている。
卒業後は脚本家、カメラオペレーター、企業ビデオなどの監督として働きつつ短編映画を作り続けた。
1998年、『フォロウィング』で初めて長編映画の監督を務める。『フォロウィング』は製作(共同)、監督、脚本、撮影、編集(共同)をこなしたデビュー作。
出典・リファレンス
https://en.wikipedia.org/wiki/Christopher_Nolan
https://en.wikipedia.org/wiki/Following
https://www.usatoday.com/story/life/movies/2018/05/13/cannes-festival-christopher-nolan-inspires-crazed-crowd-talks-batman/605699002/
1971年10月10日 –
デビュー作『ハポン』(2002)
16歳の時にアンドレイ・タルコフスキーの作品に影響を受ける。その後、アメリカのマウント・セント・メアリー大学に進学した後、メキシコで法学を、ロンドンで武力紛争を学び、国連の機関で働いた。
1999年、2本の短編『Prisioneros (囚人たち)』と『マクスユマン』を製作。同年には最初の長編『ハポン』の脚本を執筆し始め、2001年に撮影を終えた。翌2002年に完成した同作は第55回カンヌ国際映画祭でカメラ・ドール特別表彰を受賞。その他にもブラチスラヴァ国際映画祭グランプリ、テッサロニキ国際映画祭監督賞など多数の賞を獲得した。
出典・リファレンス
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%AD%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%AC%E3%82%A4%E3%82%AC%E3%83%80%E3%82%B9
1974年2月15日 –
長編デビュー作『君とボクの虹色の世界』(2005)
両親のリンディー・ホフとリチャード・グロッシンガーはゴダード大学で講師をする傍ら、作家として活動していた。ミランダは友人の友人で作家のリック・ムーディから短編を書くように勧められた。
カリフォルニア州バークレーで育ったミランダは16歳で初の舞台の脚本、監督を務め年齢制限のないクラブ924 Gilmanで上演した。その後、カリフォルニア大学サンタクルーズ校に入学する。しかし2年目で中退し、オレゴン州ポートランドに引越しパフォーマンス・アートを始めた。
1996年初めポートランド在住中に「Joanie4Jackie」(当初は「Big Miss Moviola」)と題したプロジェクトを開始。女性による短編映画集で、チェーンメールの内容に沿った短編映画を製作し、そのビデオを関係者に送ったり、購読者にシリーズとして送ったり、販売を行った。このビデオ・シリーズの他にも第二弾として「the Co-Star Series」を始めた。大都市から友人を招き数本の短編を選出した。主事はミランダ・ジュライ、リタ・ゴンザレス、Astria Suparak他。この「Joanie4Jackie」シリーズは映画祭や自主製作映画イベントでも上映された。2002年終わりの段階で13版が発表されている。
フィルムメイカー・マガジンは彼女の作品を2004年の「25人のインディーズ映画」の第1位に選出した。サンダンス・ワークショップの席を獲得した後、最初の長編映画『君とボクの虹色の世界』を制作し2005年に公開された。2005年カンヌ国際映画祭でカメラ・ドールを受賞、サンフランシスコ国際映画祭、ロサンゼルス映画祭では観客賞を受賞した。