映画『ブレードランナー』の原作小説『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』の感想とタイトルの意味考察(ネタバレあり)

映画『ブレードランナー』の原作小説『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』

映画『ブレードランナー』の原作小説はフィリップ・K・ディックの『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』ですが、不思議なタイトルですよね。ここではこの原作小説を読んで感じたことや、このタイトルの意味についての考察、映画版との比較について書きたいと思います。

登場人物の心象風景あるいは幻覚、言葉のあやのような表現がしばしば見られる小説のため、私なりに理解した内容になります。

『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』のストーリー

警察所属の賞金稼ぎの男が、火星から地球へ逃げてきたアンドロイド達を始末していく中で、感情や人間性に対する認識がゆり動かされる。

『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』の内容について

戦争後の環境汚染が進む地球から人間達が火星へ移住していくのとは逆に、火星で奴隷のように扱われる生活から地球へ逃げてきたアンドロイド達と、彼らを始末する職業の男や地球に残っている周囲の人間、それぞれの感情や人間性、精神の拠り所をめぐる話です。

映画『ブレードランナー』にも受け継がれている上記の内容を主軸に、以下のような要素もあります。

主人公のリック・デッカードは、感情に欠陥があると感じアンドロイドだと思っていた相手がアンドロイドではなかったり、逆に、アンドロイドに感情移入した自分を異常だと思いつつも、後半、アンドロイドと不倫をします。

仲間達が殺される中、生き残っているアンドロイド3人(3体)が、汚染による知能障害(作中では「ピンボケ」と表現されている)のある人間の親切に触れ、利用します。

また、共感(エンパシー)ボックスと表現される、離れた場所にいる他者と精神融合する機械で多くの人が心の拠り所としてアクセスしていた教祖のような人物が、実は昔の売れない役者でアンドロイドだということが明かされます。

タイトル『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』の意味

タイトル『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』は、アンドロイドは寝ている間に電気羊の夢を見るか、ということよりも、人間が本物の動物を手に入れることを夢見るように、アンドロイドは電気羊を手に入れることを夢見るのか、という意味だと考えられます。以下、もう少し詳しく見ていきます。

アンドロイドとは精巧に作られたヒト型のロボットのことで、映画『ブレードランナー』では「レプリカント」と表現されていますが、原作中では一般的な表現と同じく「アンドロイド」と表現されています。電気羊とは、この原作中での、精巧に作られた羊のロボットのことです。

ストーリー中の地球は荒廃が進み、本物の動物は高価です。主人公は電気羊を飼っていますが、いつか本物の動物を手に入れることを夢見ています。本物の動物を飼うことが高いステータスの証となっていて、本物の馬を飼っている隣人とのエピソードや、主人公がアンドロイドを始末した懸賞金を頭金として山羊を買うエピソードなど、生き物に関するエピソードが多く登場します。

一方アンドロイドは過酷な労働をさせられ、逃げると殺される奴隷のような存在です。主人公のリックは検査器具を使ってアンドロイドを見抜きますが、普段の生活では人間とアンドロイドを見分けることができず、アンドロイドに感情移入もしてしまいます。

小説の中に次のような部分があります。

アンドロイドも夢を見るのだろうか、とリックは自問した。見るらしい。だからこそ、彼らはときどき雇い主を殺して、地球へ逃亡してくるのだ。奴隷労役のない、よりよい生活。-略- 不毛な岩だらけの荒原、もともと居住不可能な植民惑星で汗水たらして働くよりも。

これは寝ている間に見る夢のことではなく、よりよい生活への希望のことを意味していると読み取れます。

人間にとっては作り物の動物より本物の動物の方が価値が高く、本物の動物を飼うことがより良い生活を象徴する憧れとなっていますが、では作り物であるアンドロイドは、本物の動物ではなく自分たちと同じ作り物である動物に価値を感じ、作り物の動物を飼うことがより良い生活を象徴する憧れとなるのか、という問いかけをタイトルとしていると思います。

その問いかけは、著者から読者への問いかけというよりも、主人公がふと抱くかもしれない疑問・問いかけのように見えます。

人間とアンドロイドの意識下での境界があいまいになる中、主人公が、より良い生活を象徴する憧れである本物の羊を手に入れることを夢見るように、アンドロイドは、より良い生活を象徴する憧れとして電気羊を手に入れることを夢見るのか、という問いかけです。

『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』の文体などの印象

文体、物語の進め方が古く感じる
小説特有かもしれませんが、文体、物語の進め方が古く感じます。演劇に通じるある種の様式だと思うのですが、例えば初対面の人に対してやけに具体的な名称を出してたとえ話をしたり、観念的な会話が多かったり、追う者と追われる者の対面した緊迫した場面のはずなのに、長々と会話をしたりします。演劇に見られるスタイルだと思いますが、これを実際に映像にしたら違和感があるようなやりとりが多く、冗長に感じます。

行動の方向性が突然変化したように見える部分がある
また、登場人物の気持ちの変化が描かれていないため行動のしかたに辻褄が合わないというか行動の方向性が突然変化したように見える部分もあります。例えば以下のような部分です。

・もう帰ってくださらない?と言われた男は会話を続け、なぜかそのまま家で二人で食事をする

・アンドロイドの始末のために、手助けの申し出をしてくれていた別の女性アンドロイドに助けを乞うために電話をするが、なぜか急にホテルに誘う

デザインについてはあまり具体的には書かれていない
都市やビルや車のデザインについてはあまり具体的には書かれていません。

心象風景あるいは幻覚、言葉のあやのような表現
その反面、時々、現実とも登場人物の心象風景とも幻覚ともとれない表現がしばしば見られ、後半で知的障害を持つ男が精神的に不安定になった時に「共感ボックス」で見る幻覚か心象風景の描写は細かいです。

映画化された『ブレードランナー』との比較

さて、原作と映画を比較して気づいた点をいくつかピックアップします。

映画版は思いのほか原作の要素を残している

映画『ブレードランナー』では、原作の「警察所属の男が、火星から地球へ逃げてきたアンドロイド達を始末していく」という主軸を踏襲している他、思いのほか原作の要素を残しています。

・ホバー・カー(飛行車)が出てくる

・「デッカード」「レイチェル」他、アンドロイドを含む登場人物たちの名前の多くが小説から引用されている

・デッカードは検査器具を使ってレイチェルをテストし、アンドロイドだと見抜く。また、その際のやりとりにも原作から引用された内容がある

・模造のフクロウが出てくる

・場面としては異なるが、車の中でのデッカードとレイチェルのシーンがある

・あと2年の寿命

などです。

原作から削除された要素もある

一方、原作にあって映画版では削除された要素もたくさんあります。

・デッカードに、機嫌の悪い妻がいる

・馬を飼っている隣人

・汚染による知能障害を持つ、模造動物修理店の集配ドライバーとして働く男。彼一人だった廃墟ビルにアンドロイドの女が引っ越してくる

・情調(ムード)オルガンという、自分の精神状態を変化させる機械や、共感(エンパシー)ボックスと表現される、離れた場所にいる他者と精神融合する機械で苦行を行う教祖的な存在に多くの人が同時にアクセスする

などです。

小説では緊張感のあるアクションシーンは少なく、緊迫する場面であっても概ね会話で話が進みます。

映画化にあたって

これらの特徴を持つ小説の映画化にあたっては、ストーリーをうまくシンプルにまとめ、ビジュアライズしていると思います。

企画の立ち上がりから映画化まで何年もの時間がかかったのは、ハンプトン・ファンチーが脚本作りとリライトに苦労したことや、リドリー・スコットの完璧主義などが理由だと思いますが、そもそもこの原作を映画化するのは骨の折れる作業だったと思います。

リドリー・スコットが、途中で雇われた脚本家のデイヴィッド・ピープルズに原作を読まないで脚本を書く(改定する)ように指示したのは正解だと思います。仮に読んだとしても原作にひっぱられずに書くことはできただろうとは思いますが。

▶︎『ブレードランナー』の企画の立ち上がりやタイトル案の変遷についてはこちらの投稿をご覧ください。