2018年にラスベガスの映画祭で選ばれ賞も頂いた短編映画をその後再編集し、VFXも追加・更新し、音楽効果も加えてバージョンアップし、映画祭に応募を始め、今回またアメリカの映画祭で選ばれました。
ここまで持ってくるのは大変でした。ここではこれまでの経緯などを書こうと思います。
この作品は元々渡米前に日本のテレビ局内で仕事をしていた頃に結局実現できなかった自主的な映画企画のストーリーが元になっています。
当時、ニュース番組用解説CGやバーチャルセットCG、各番組用オープニングタイトルなどの制作に10年以上携わったあと徐々に管理業務へ移行していく中で、ビジュアルと音楽とストーリーの合わさったコンテンツの企画制作に携わりたいと思い、会社へはPI(目標設定や達成報告と今後の希望などを定期的に会社へ伝える書類)で伝えつつ、自主的に音楽家とサンプルを作って社内で見てもらったり企画募集があれば応募したりしていました。
地デジ移行で生まれる可能性に着目した企画を考える一方、ビジュアルと音楽とストーリーの合わさったコンテンツの最たるものは映画やアニメではないかと考え、帰宅後や土日などの時間を使ってストーリーを考え、映画一本分の絵コンテを描き、ビジュアルイメージを作り、企画としてまとめ、プロデューサーや社長に見てもらったりしましたが、箸にも棒にもかかりませんでした。
経験がない者においそれとやらせられないとは思いますが、経験しようにも機会がなく、そうやって何年努力しても状況は変わりませんでした。
夜間の映画学校にも通いましたが講義主体だったため実際の制作がしたいと思い、一方、友人知人の中には海外に出ていく人が何人かいて自分も一度は海外で生活してみたいという気持ちもあり、映画留学をすることを考え始め、数年に渡りリサーチをした後46歳の時会社を辞めて英語の語学留学と映画留学をすることにしました。
ある意味この作品を実現させることが、日本で勤めていた会社をわざわざ辞めてまでアメリカ留学をした目的の一つでもありました。
▶︎渡米前の経歴についてはこちらの投稿をご覧下さい。
高い年齢で留学することにはメリットとデメリットがあります。
私の場合メリットは、経済的にそこそこの蓄えができており、老後の貯金ということを重視しなければ留学をしようと思えばできる状態にあったことと、基本的なVFXの経験はあったので映画制作に役立ったことです。
デメリットは、会社を辞めて留学したためそれまで社内で積み上げてきた実績や収入を諦めることになることと、若い頃と違って基本的に海外への引っ越しになるためハードルがあること、特にここ日本においては留学から帰国後の高い年齢での再就職は困難になることです。
▶︎留学は若い時の方がいい5つの理由についてはこちらの投稿をご覧ください。
▶︎渡米前のアパート整理の苦労についてはこちらの投稿をご覧ください。
英語によるコミュニケーションができる状態で最初から映画留学をしたわけではなく、まず語学留学から初めました。初めての海外生活自体は実のところさほど問題がなかったのですが、渡米前には想像していなかったことに苦労しました。
▶︎渡米前には想像していなかった留学時の意外な大変さのポイントについてはこちらの投稿をご覧ください。
英語の勉強を続けるかたわら映画学校への出願準備と出願手続きもし、ニューヨークフィルムアカデミーから条件つき入学許可が出たものの想定していた時期にはTOEFL
▶︎アメリカの映画学校の出願準備についてはこちらの投稿をご覧ください。
▶︎語学留学の延長についてはこちらの投稿をご覧ください。
しかし入学時期ギリギリになってもスコアが上がりきらず、最後は交渉して面接してもらって入学許可をもらいました。
▶︎映画学校へ入学の交渉についてはこちらの投稿をご覧ください。
世界中から集まった人(クラスメート)達と様々な授業や撮影プロジェクトを共にし、自分で作ったストーリーを元にロサンゼルスエリアのアクター達と一緒に短編映画を作る、という経験は日本にいたらできませんので、とても楽しく有意義でした。
▶︎ニューヨークフィルムアカデミー MFA Filmmakingの授業内容についてはこちらの一覧からご覧ください。
私は卒業制作では、渡米前に考えたストーリーを学校の授業の中で短編映画としてアレンジして制作しました。しかし、この映画の制作時には驚くほどの困難やトラブルがありました。
▶︎卒業制作についてはこちらの投稿とこちらの投稿をご覧ください。
▶︎ロサンゼルスで経験した、短編映画制作時の様々な困難やトラブルとその対処 についてはこちらの投稿やこちらの投稿をご覧ください。
いずれにしてもひとまず完成させ、ワーナー・ブラザースのシアターを利用した学内の上映会に関係者を招き、上映しました。
卒業後OPTの期間や日本帰国後も修正やVFX作業を続けました。
撮影前の準備不足や、本来撮影時に適切に指示すべきことをできていなかったり、様々なトラブルがあって予定どおりの撮影ができずクオリティに影響していたため、それらをVFXで補うことにしていたからです。アメリカ滞在中も少しづつ修正作業を進めましたが、日本帰国後も生活の再開に苦労しつつ引き続き修正・バージョンアップを行いました。
▶︎アメリカの映画学校卒業後のOPTについてはこちらの投稿をご覧ください。
▶︎留学から日本帰国後の苦労についてはこちらの投稿をご覧ください。
このときの修正・バージョンアップは概ね細かいVFX作業です。デジタル時計の時間変更、カメラフレーミングがおかしかったためそれを修正するためのセットエクステンション、肌のレタッチ、役者の動きで揺れてしまったテーブルを止める作業、ロケーションオーナーのわがままで計画通りに撮影できなかったシーンの背景をCGに差し替える作業など多岐に渡ります。
例えばなぜ「役者の動きで揺れてしまったテーブルを止める」必要があったかというと、テーブル上のパソコンモニタに後処理で画面をはめ込む予定でしたが、テーブルもモニタも揺れる上にそれらを時折役者が覆ってしまっていたためトラッキングがうまくできず、そのままでは画面のはめこみができなかったためです。
トラッキングとは、映像撮影時にカメラが動いていたり逆に被写体が動いている場合に、合成するものをその動きに合わせることができるように動きを検出することです。テーブルもモニタも揺れる上にそれらを時折役者が覆ってしまっている状態では動きの検出がうまくできず、その揺れを止める必要がありました。
実際の作業としては、役者の周囲にマスクを描いて背景から分け、背景を静止させることでモニタ画面のはめこみをする際のトラッキングを不要にしたのですが、これにかなり手間がかかりました。
修正リストをつぶしていき、一通り作業が済んだところで映画祭に応募し始めました。
小規模な映画祭で認定賞とでもいうべき賞をいただいたほかは、なかなか選ばれず、私の卒業制作に出演してもらったアクターにも相談し、あるアクターから、有名な映画祭以外にも応募するべきだとアドバイスを受け、彼に教えてもらった映画祭に応募し、選ばれました。ラスベガスの映画祭です。
現地では、世界中から来た映画制作者達が交流し、非常に楽しかったです。知り合ったインディペンデント映画の監督と一緒に彼の作品の上映を見たり、カジュアルなパーティーがあって何人かと話をしたりしました。作品リストに日本人の名前を見つけ、それらの上映を見たり監督や関係者と交流もし、いろいろ刺激を受けることができました。
映画祭期間の最後に受賞式パーティがあり、賞もいただくことができました。
▶︎映画祭 映画祭応募ウエブサイトについてはこちらの投稿をご覧ください。
▶︎ラスベガスの映画祭で選ばれ、上映され、そして受賞した様子についてはこちらの投稿をご覧ください。
映画祭に選ばれ賞をいただいたことは名誉ですが、その後何も進展がなく、自分の名刺としてもう少し映像としてクオリティを上げる必要性を感じていましたが、その当時は映像ディレクターとして勤めており毎日帰宅が遅く、土日は休息と日常の用事で潰れ、何も進みませんでした。
そんな頃に新型コロナウイルスのパンデミックがあり、それをきっかけに会社を辞め、しばらくバージョンアップに取り組むことにしました。
せっかく高い年齢で就いた仕事をまたやめたのは、子会社への派遣という形の就業形態で当初の派遣期間が終了に近づくタイミングだったこと、当時はまだウイルス感染防止のために人との接触を避けたいという気持ちが強かったこと、この短編映画を現状の自分にできる最大限のクオリティにしておきたいという気持ちがあったものの会社勤めをしながら制作するのは時間的に困難だったことなどが理由です。
知り合いの短編映画を手伝ったりするかたわら経済的にぎりぎりになるまでバージョンアップ作業を続け、また生活を立て直しつつ映画祭に応募し始め、今回また選ばれ、上映されました。
▶︎バージョンアップ作業の一部は、姉妹サイトのこちらの投稿もご覧ください。
▶︎知り合いの自主制作映画などの手伝いの様子は、こちらの投稿、こちらの投稿、こちらの投稿をご覧ください。
選ばれた映画祭
Maryland International Film Festival
https://www.marylandiff.org/
留学を始めた時から10年以上、渡米前に自主的な映画企画のストーリーとして構想していた頃からはもっと時間がたちました。これまで仕事として個人として多くのものを作ってきましたが、今までで最も時間と費用をかけた作品となりました。
これだけの経歴・経験と作品をできれば20年前(の年齢)、せめて10年前に持てていたらと思いますが、それぞれの時期に自分にできる最大限のことはやってきましたので、今後もそうしていこうと思います。