1973年の映画『エクソシスト』を見た感想を書こうと思います。
オカルトホラー映画の代表作とも言われるようですが、現在の目で見ると「怖い」演出としてはかなり初期的な印象ですが、強烈に「冒涜的」な表現も含まれています。
一方、「ホラー映画」としての立て付けの裏で一人の神父のドラマが比較的はっきり描かれており、しかし、私見ですが、近年の映画に比べるとやや無駄な部分やあいまいな部分が多く、欠点もあるように感じます。
以下考察していきます。
以下について書きます。
・ストーリー
・基本情報
・ホラーとしては初期的な「怖い」演出と、強烈に「冒涜的」な表現 その他
・誰のストーリーか
・やや無駄な部分やあいまいな部分が多く、欠点もある
悪魔が憑いた原因は?
主人公以外の登場人物の背景ストーリーなど、余計なエピソードが多い
誰がリーガンの枕の下に十字架を置いたのか?
なぜ悪魔はカラス神父がただの水道水を聖水だと言って振ると苦しみだしたのか?
・音楽、音響効果について
■ストーリー プロット準拠版
女優の娘の声や容貌が醜悪に変化し不可解な現象も起き、医者に診てもらっても拉致があかず、その女優に懇願されて同じ地域の神父で精神科医でもある男が診るようになる。彼は色々やった結果悪魔祓いの必要性を教会に相談し、その経験のある高齢の神父に依頼して二人で悪魔祓いをするが、高齢の神父は命を落とし、自分は悪魔を自らに取り憑かせて身を投げる。
■ストーリー デミアン・カラス神父目線
信仰心を失いかけ悪魔も信じず、その逃避であるかのように精神科医をしているが精神医学でも信仰の悩みは解決しないと感じ、自分の母を何もできずに亡くし無力感に苛まれる神父が、悪魔に憑かれた少女の母親から悪魔祓いを懇願され、彼女を助けるため手を尽くし高齢の神父と共に悪魔祓いをした後、自らに悪魔を憑依させ窓から身を投げる。
デミアン・カラス神父のストーリーについては後述します。
監督: ウィリアム・フリードキン(恐怖の報酬、L.A.大捜査線/狼たちの街など)
原作・脚本: ウィリアム・ピーター・ブラッディ(エクソシスト3では原作・脚本・監督)
出演:リンダ・ブレア(リーガン)、エレン・バースティン(クリス)、ジェイソン・ミラー(デミアン・カラス神父) 他
1973年の映画で、オカルトホラー映画の代表作とも言われるようです。様々な怖い演出の映画がある現在の目で見ると、「怖い」演出としてはかなり初期的な印象がしますが、おそらくこの映画がその後の同種の映画に影響を与えているのだと思います。
少女リーガンに悪魔が憑き、ベッドが大きく揺れ、部屋の様々なものが飛び、リーガンは醜悪な形相になり、汚いことばを吐いたり、首が回転したり、浮き上がったりなど、公開当時はかなりショッキングだったのではないかと思います。ディレクターズカット版にある、ブリッジをしながらクモのように階段を降りてくるシーンも有名です。
強烈に「冒涜的」な表現も含まれています。悪魔に憑かれた少女リーガンが、「キリストにファックさせてやれ」と叫びながら自分の股間を十字架で何度も突き刺し血だらけになり、止めさせようとした母親の顔をその股間に持ってきて「ナメろ、ナメろ」と言い、その後母親をはたき倒します。
キリスト教の敬虔な信者でなくともショックを受ける人は多いと思います。
また、そういった「悪魔」に関する部分だけでなく、様子のおかしいリーガンが病院で検査を受け、首筋に針を刺して血が噴き出るシーンも痛々しいです。
映画とは一般的には「誰かが何かをする」物語です。
▶︎ストーリーのない映画についてはこちらの投稿をご覧ください。
『エクソシスト』では、悪魔が取り憑いた少女リーガンとリーガンの母で女優のクリスが主役かもしれませんが、誰の物語かと言えばデミアン・カラス神父の物語ではないかと思います。しかし彼の描き方はやや弱い印象です。
元ボクサーで現在は精神科医でもある神父ですが、「精神医学で信仰の悩みは解決しない」として今の仕事が向いていない、辞めたい、信仰さえ消えた、と悩んでいます。その後一人暮らしをしていた母親を亡くし、悪魔祓いを依頼されて最初は否定的だったものの懇願されてかかわりはじめ、少女に憑いた悪魔と対峙し、教会にも相談し、悪魔祓いの経験のある高齢の神父と悪魔祓いをし、最後は自らに悪魔を憑依させ窓から身を投げています。
この映画は「信仰心を失いかけ悪魔も信じず、
この側面が、この映画が単なるホラー映画ではない名作と言われるゆえんだと思います。第46回アカデミー賞の脚色賞と音響賞を受賞しています。音響については後述します。
少女の母親ももちろん娘のために色々と手を尽くしていますが、このストーリーの中で誰が一番活躍し人生が変わるほど変化したかというと、デミアン・カラス神父だと思います。
しかしこの映画はデミアン・カラス神父の物語だけを軸としては描いておらず、彼を主人公ととらえるには描き方がやや弱い印象です。もっと彼を軸に描いたほうが深みが出たのではないかとも思います。例えば彼の母との関係性や、母を失った悲しみと助けられなかったことへの罪悪感や、悪魔がそこを精神的に揺り動かしてくる部分などをもう少し掘り下げると良くなりそうです。
「誰のストーリーか」が明確でないだけでなく、近年の映画に比べるとやや無駄な部分やあいまいな部分が多く、欠点もあるように感じます。以下解説します。
少女リーガンに悪魔が憑いた原因が不明確です。彼女がクローゼットで見つけたウィジャボード(日本で言うところのコックリさん)をしたことがきっかけだと思いますが、そのことと悪魔との関連性は描かれておらず、憑いた理由が不明です。
メリン神父がイラクで悪魔の像を見つけたことでアメリカにいる少女リーガンに悪魔が憑いたとする説が見られますが、やや無理があるように思います。
登場人物それぞれを表現するために多くの時間を使っており、彼らのバックグラウンドや人となりを表現していると思いますが、個人的には主要登場人物以外の背景ストーリーはなくてもいいと感じます。
メリン神父のイラクでの発掘調査などのシーン
映画の冒頭のメリン神父がイラクで発掘調査をしているシーンから悪魔の像に出会うシーンは、メリン神父のバックグラウンドを示すと同時に、後に悪魔と対峙することの前触れ、フラグとなっていると思われます。実際、フリードキン監督が強く希望して撮影したとのことですが、これらのシーンは、メリン神父がイラクで悪魔の像を見つけたことで少女リーガンに悪魔が憑いたというストーリーでない限り、少女ともデミアン・カラス神父とも関係ないため、なくても成立すると思います。メリン神父も重要な登場人物ですが、主役ではない登場人物のためにわざわざイラクの遺跡発掘で大規模なロケを行ったのはややちぐはぐな印象です。
映画の冒頭でそのイラクのシーンに合わせてイスラム教のアザーン(礼拝への呼びかけ)が流れ、ミステリアスな雰囲気を出すのに役立っている反面、キリスト教の悪魔祓いを描くストーリーとちぐはぐな印象がしますが、宗教間の戦いを暗示しているのでしょうか。イラクのシーンで、メリン神父の仕事仲間?が、悪魔の彫刻を見ているメリン神父に突然「悪には悪を」と語りかける場面があります。
少女リーガンの母クリスが女優という設定
ストーリー中、少女リーガンの母クリスは女優で、撮影のため撮影場所のそばに一時的に娘や使用人たちと住んでいる設定となっています。屋外で映画を撮影している時にそれをカラス神父が見ているシーンや、娘のリーガンの様子がおかしくなったあと監督がその家のそばで死亡したため、それが悪魔の仕業ではないかと疑われるエピソードも描かれています。女優であり撮影場所のそばに住んでいるという設定によってそれぞれの登場人物を関連付けているのですが、女優であることや映画の撮影自体は悪魔憑きと関係がないため、必ずしも女優という設定でなくても、例えばある程度裕福な単なる主婦で、家のそばで亡くなる人物は夫や友人でもストーリーは成立はすると思います。
あるいは逆に、話がやや複雑になってきますが、娘の悪魔憑きが女優である母に何か関係していると、深みが出るかもしれません。
以上のように、メリン神父のイラクでの発掘調査のエピソードや女優という設定はストーリー上一定の役割を持っているものの、なくても成立するため、むしろデミアン・カラス神父の物語を掘り下げ、しっかり描いたほうが良かったのではないか、というのが個人的な感想です。
刑事
このストーリーに刑事が必要だったかどうかは何を重視するかによって変わってくるかもしれません。
映画監督バークがリーガンの家のそばの階段で転げ落ちて死んだ後、その件で刑事がランニング中のカラス神父に会いにきます。殺人課と名乗り、死んだ時バークの首が完全に真後ろにねじれていたことで、これが「悪魔的な殺人事件」だとして魔術が使われた可能性も探っています。
犯人は「異常者」か「教会に敵意を持つ者」、そしてカラス神父がはさんだ言葉への返答で、「異常をきたした神父」の可能性も疑っていることがわかります。カラス神父が精神科医であるため、思い当たる人物がいるか聞き出そうとしています。
うっすらとカラス神父を疑っている雰囲気さえ感じますが、この刑事の「捜査」の様子は掘り下げられておらず、リーガンの家へクリスに会いにもいきますが、実は女優クリスのファンだと明かしています。「捜査」を掘り下げる選択肢もあったとは思いますが、悪魔祓いの物語に犯人探しという余計な軸が生まれてしまうために深掘りされていないのかもしれません。
この刑事は、「憑かれた少女とその家族」「神父たち」「リーガンを何度検査しても彼女の変貌の説明ができず、もっともらしい説明を繰り返す無能な医者たち」などの他は唯一比較的ニュートラルで客観的な視点を持つ存在で、そのことが悪魔憑きのストーリーにリアリティを与え、この映画をファンタジー映画にしないことに役立っていますが、やや中途半端な役回りで、いなくても成立するように思います。
バークが死んだ数日後(どのくらいの時間が経っているかは不明)、病院から帰ったリーガンをベッドに寝かせたクリスが、その枕の下に十字架を見つけ、使用人のカールたちに誰が置いたのか聞きますが、誰も置いていないと答えます。
一見ミステリアスですが、これは単純に、使用人の一人シャロン(厳密にはハウスシッター兼子守り – 脚本より)が薬局に行く間バークに留守を頼み、その時に悪魔が憑いたリーガンに襲われ窓から転落し、襲われた時にバークが悪魔に対抗しようとした名残りではないかと思います。
しかし、このエピソードの描き方があいまいです。最初、あなたが置いたの?と聞かれたカールは質問には答えずリーガンの容体を聞き、再度、リーガンのベッドに置いたのか聞かれ、いいえ、と答えています。本当はカールが置いたのかもしれないと思わせる演出ですが、それ以上の掘り下げはなかったと思います。
カールは終始「単なる使用人」として描かれているため、仮にカールが置いたとしても「様子のおかしいリーガンのため」でしょうから答えをはぐらかす必要はなく、そもそも「誰が置いたのか分からない」というミステリーにする必要もなく、描き方があいまいで、映画冒頭のイラクのシーンなどと同様、ストーリー上のつながりがない、単なるミステリアスな雰囲気を出すためのエピソードになってしまっています。
悪魔はカラス神父がただの水道水を聖水だと言って振ると苦しみだし、それに対してカラス神父は「悪魔なら騙されないはず」とクリスに話し、結局なぜ悪魔は苦しみだしたのかが明らかでありません。
1つの説としては、悪魔は実はリーガンの内面が現れたもので本当の悪魔ではなく、そのため水道水を聖水だと言っても騙されたという意見があります。バークが死んだ件も、彼女の秘めた本心が悪魔として現れバークを殺したというわけです。リーガンは酔っ払いで酒癖の悪いバークを内心嫌悪しており、それが悪魔の形をとって出てきたということだと思いますが、深読みしすぎではないかと思います。
映画の最初の方でまだ悪魔に憑かれる前の母親との会話で、リーガンの誕生日に何をするかの話の中で、「デニングスさん(バーク)も呼んで」「好きでしょ?」というような発言をしています。自分の本心に反して母親の機嫌とりをする年齢でもないと思いますので内心嫌っていたらわざわざ言わない発言だと思います。
また、悪魔にベッドの上で寝たまま何度も跳ねさせられ「ママ止めて。わたしを殺すつもりなのよ」と言ったり、腹にHelp Meと浮き上がったりしており、明らかにリーガン本人とは別の物が憑いている表現となっています。
別の説としては、悪魔がカラス神父を翻弄しようとしているという意見もあります。悪魔はカラス神父の母親のことにも言及しており翻弄させる一環なのかもしれません。カラス神父に「これは悪魔ではない」と思わせ遠ざけようとしているのであれば理屈は通ります。
いずれにしても、なぜ水道水を聖水と言って振ったら苦しんだのかその理由は明確に描かれていません。
悪魔祓いの祈祷をするシーンなどは、現代の映画ならもっと音楽や音響(効果音)で盛り上げるのではないかと思いますが、全般的に音楽をほとんど使わず、ピンポイントで音響(効果音)を入れる静かな演出をしています。
例えば、映画冒頭のアザーン、メリン神父がイラクで悪魔の像を見るシーン、デミアン・カラス神父の夢のシーン、度重なる検査をしても原因がわからず母がイライラし、刑事も周辺を捜査し始めるあたりのシーケンス、リーガンの脇に悪魔の像のシルエットが浮かび上がるシーン、デミアン・カラス神父がリーガンの部屋で母親の幻影を見せられるシーンなどに、抑えた効果音が使われています。
この映画は第46回アカデミー賞で音響賞も受賞しています。
色々無駄な部分やあいまいな部分が多く欠点もある映画ですが、現在の目で見ると初期的な印象ではあるもののさまざまなホラー表現の工夫をしており、しかし観客を怖がらせるだけが目的のホラー映画ではなくドラマも描かれており、分析・考察しがいのある映画であることは確かです。
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